見えない世界を理解したい

これからは心の時代と言われます。また、科学は量子力学のような見えないものの研究に移行しているともいわれます。しかし、 見えるものを中心に生きてきた私達にとって、見えない心や科学現象はどうしても観念的な理解に留まってしまいます。

私は 過去のある経験により、見えない現象はできるだけ形あるものに置き換えて理解するようにしています。

素人と前置きした上でお話しますと、私は物理学や宇宙にずっと興味を持ってきましたが、正確に理解していたかと言えば疑わしいと言わざるを得ません。

その実態は、アインシュタイン博士やホーキング博士の簡易版の書籍を読ファンタジーの世界に酔っているようなものでした。

興味の本質は、規格外の宇宙の広さとそれを数学で証明しようとする並外れた頭脳という構図に感動と尊厳を抱いていたことです。

ある時、たまに購入していた「ニュートン」という科学雑誌に、星と重力の関係の図を見つけました。その図は、ピンと張った布の上に星の模型を置いていて、星の模型を置いたところが重みで下に垂れている画像でした。身近なもので例えば、ピンと張った風呂敷の上にミカンを1個置いた場合を想像していただくと解りやすいと思います。

そのピンと張った布の上に小さな球状の玉を転がすと、星の模型の重力で袋状に下がった斜面に沿って星の模型の方向に落ちていくというものでした。チョット分かりにくくてすみません。

これは、星の重力を可視化した模型でしたが、この模型で客観的に重力というものを理解出ました。今まで意味さえ解らなかった星の重力で、光が屈折するということも理解できたのです。

私はこの経験以降、理解しにくいものは何らかの物に例えることで理解しようとする癖がついてしまいました。

これがいいのかどうかは、正直分かりません。

先日のブログで、「イラッ」とするけど本当は思いやりのある言葉のことを、外はイガイガしていても中の実は甘い栗に例えたのもこの癖が原因です。

この表現は分かりやすいと言われたので、例えの成功例かもしれません。

もう一つ物理学の話をさせていただくと、10年前ぐらいに衝撃を受けたのが、超ひも理論というものでした。簡単に言いますと、物質の最小のものは粒子ではなく、震えるひものようなものだということでした。

私のレベルでは、粒子が震えるひもになったことで何が変わるのかは分かりません。

しかし、物質の最小のものは素粒子という粒子だと信じていた私には、その事実は衝撃的なものでした。確立されたように見える理論も、変わり得るのだということを目の当たりにしたのです。関連としてBSで放送された「神の数式」という番組が、4回に分けて放送されたと記憶しておりますが、毎回食い入るようにして見たことを覚えています。

最近の宇宙や物理の番組は、CG技術の向上で視覚的に見れるので楽しませていただいています。

黒人差別を原因としたアメリカでの暴動や、民主化運動による香港での騒ぎなどを目にするたびに、心が苦しくなる自分がいました。これをキッカケにして、個々の人間と人類全体の心の繋がりのあり様を考えるようになりました。

過去を振り返り、感動したものにベルリンの壁の崩壊があります。多くの若者がつるはしでコンクリートの壁を壊している様子は、時代の変化と共に、民衆の戦いが勝利したように見えてテレビの画像にくぎ付けになったことを覚えています。

そして、このような人間同士の共感を、具体的なもので表現したいという欲求にかられました。何故、そんなことを考えたのかと言いますと、この共感と共感からの行動というものが世界を変える原動力になるようなことを漠然と感じたからでした。

そこでまず一人一人の心を、震える糸だと考えてみました。(ここは超ひも理論に影響を受けたかもしれません。)そして、民衆心理は、その震える糸が編み込まれた布だと考えました。

このように感じた後は、テレビで見た民衆の抗議は、大きく波打つ布のように感じるようになりました。

また、このように考えることにより、一人の思いが皆に伝わったり、皆の想いが一人に伝わることもイメージできるようになりました

時代はネット社会になり、双方向で情報交換できるSNSも浸透し、人々の心が共鳴しやすい環境にむかっているのかもしれません。

国連が世界の問題をピックアップして、未来への目標を発表していますが、それを推進するのはもはや国ではなく、世界の民衆の熱い心が編み込まれた大きな布が大きなうねりを起こすことでしか進まないような気がします。

近代において、大きな戦争や差別を生み出してきた私達は、そろそろ平和と調和に向かわなければならないように思うのは私だけでしょうか。 その中で、私達一人一人は、小さな「震える糸」ですが、編み込まれた民衆の集まりの世界市民という大きな布は、大きな力を持って世界を動かしていくことができるような気がします。

もし、そうであるならば、なおさら私達一人一人の「震える糸」は、責任を持った「震える糸」にならなければいけないと思います。